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陽だまりのきみへ

Sexy Zone「星の雨」とめぐりあう世界

2021年4月5日 掲載

去る2020年、未曾有のコロナ渦にのみ込まれた世界、今まであたり前のように行われていたライブやコンサートはほとんどが中止を余儀なくされ、無人、そして配信ライブに切り替わった。

これまでのささやかな人生、ライブ、コンサート、演劇、ミュージカル。それらエンターテイメントに心を、命を生かされてきたわたしも、現場に足を運べない寂しさに耐えつつ、いくつかの配信ライブや演劇を観た。

その中でも、一番心に残った歌についてどうしても書きたいことがあって、今わたしは様々な思いをめぐらせている。

あのライブを観たあの日、わたしの隣には7歳の末っ子がいた。まだちいさな手で頬杖をついて、四角いスマホ画面をじっと見つめていたものだ。

書きたいのは、彼の大事なお友達と冒頭に挙げた「星の雨」という歌についてだ。

うちの末っ子は7歳。おっとりとした姉とお調子者の兄を反面教師にして学び育った、まさに絵に描いたようなしっかりちゃっかりした最強末っ子である。

 要領がよく、いつも冷静でいて人の感情の機敏をよく理解する子だ。何かしたいこと、やってほしいことがあるときはそれらが一番叶えられやすいだろうタイミングを絶妙に見計らってすかさずぶっこんでくる。

 出勤前の鬼忙しい朝に、やれ靴下がないブラウスがないと騒ぎたてる長女や、夕方バタバタしている時に頼むから今このギャグをどうしても見てくれと騒ぎたてる長男とはえらい違いであった。

 そんな末っ子であるが、最初からそうだったかというと、けしてそんなことはなかった。

幼稚園に入園する前は、本当に臆病で人見知りで、どこへ行くにもわたしにひっついて離れられない子だった。入園前の幼児サークルでも、まあわたしから離れない。離れられないのだ。姉や兄のつながりでよく顔をあわせている子たちとさえまったく馴染めなかった。

 それに加え、大きな音や暗い場所、人がたくさんいる場所もまったくだめだった。水族館や映画館にも絶対に行きたがらない。食べものの好みもこだわりが強く難しかった。ものや服のデザインもそう。特定の色や形しか着ないし持ちたくない。アレがいや、これがイヤ、ととにかく好みがうるさい。

とはいえ、けしてそれを声高に主張するのではなく、「あ……そうだったの?ごめんね……?」というタイミングでぽつ、とこぼすものだから、なんとなくこっちが悪いような気がして、ついほだされてしまうのであった。

なにかにつけそんな調子で、客観的に見ればかなり難しい子だったのかもしれないけれど、「まあこんな子もいるのかなぁ」とのんびり育てることができたのは、ひとえに彼が末っ子だったからだろう。

自己主張の強い長女、アレルギーやぜんそく持ちで大変だった長男の子育て経験を経て思いがけず授かった末っ子は、生きて元気でいてくれるだけでまさに天使そのものだった。

しかしそんな天使とて、いつまでも親の懐でよしよししてはいられない。短所も個性とばかりにひたすら誉めて誉めてちやほやしているうちに社会という荒波にもまれる歳に、あっとう間になってしまった。

幼稚園に入園するとなると、やはりそれなりにお友達と楽しく過ごしてほしいという親としての思いが出てくる。しかし、わたしと一緒の幼児サークルさえこれっぽっちも馴染めなかった末っ子がはたして幼稚園という世界で気の合うお友達を作ることができるだろうか?

 末っ子が、そしてわたしが末っ子の大事なお友達、Aくんと出会ったのは、そんな不安と心配をいっぱいに抱えて挑んだ入園式のことだった。

 入園式、大方の予想通り末っ子は冷凍庫でカチンコチンに固められた冷凍みかんのようだった。騒いでいる子もいる。わあわあ泣いている子もいて、彼はそんな光景を見ていちいち固まってはじっとわたしの後ろで用心深く観察していた。

 小規模な幼稚園で兄姉のつながりもあるので、仲のよい子達はもうすでにかなり仲がよく楽しそうだ。そんな輪の中に末っ子が入れようはずもなかった。わたしは内心先が思いやられる思いだった。

そんな時、運命の出会いはあったのだ。末っ子と同じように母親の後ろでじっと固まっている同級生、それがAくんであった。

直感的に、もしかしたら末っ子と波長が合うかもしれないと思った。幸いAくんのママさんは顔見知りであった。話したことはなかったが、上の子がたしか同級生だったはずだ。わたしは勇気を出して話しかけてみた。

なんと話しかけたかは忘れてしまったけど、末っ子もAくんも『すごく人見知り』『慎重』『繊細』という共通項があり、親同士はあっという間に打ち解けたのを覚えている。Aくんママはとても穏やかで優しく落ち着いた方で、わたしはすぐに大好きになった。問題は息子たちのほうである。冷凍みかん同士では、友情も愛情も生まれようはずがないのだ。

こればっりは仕方ない。本人に任せるしかない。子どもの縁は子ども自身が結ぶのが一番自然でよいのだと、わたしはこれまでの経験で悟っていたのだった。

しかし、奇跡はわりとすぐに起きた。入園式から数日も過ぎたかといったある日、末っ子に「今日はなにしてた?」と、訊いたところ、Aくんの名前が挙がってきたのだ。今まで誰とも馴染めなかった末っ子の記念すべき第1歩、まさにファーストコンタクトであった。

 気持ち的には末っ子を抱き上げて胴上げしたいくらいのすさまじい感動であったが、さすがにそれは踏みとどまった。繊細な彼を怯えさせてはいけない。わたしはとりあえずこの感動を伝えねばと切々と連絡帳に書き連ねた。

先生からの答えはこうだ。

『よかったです。Aくんと○○くん(末っ子)はなんとなく波長が合うような感じがしたので、一緒に遊ぶよう促してみたり、わたしも一緒に3人で遊んでみたりしたら、最近は自然と仲良く遊んでくれるようになりました』

奇跡ではなく、神の采配であった。素晴らしい幼稚園の先生との出会いは、人生においてなによりの宝物に等しいと感じた。末っ子は恵まれている、とわたしはさらに感動にうち震えた。

実際、その先生は本当に素晴らしい先生で、末っ子はぐんぐん心も身体も成長し、やればできる、という自信と社会性をすさまじい勢いで身につけていった。

もとよりややこしい人間のロールモデルたる兄姉を見つつ育った末っ子にとって、同世代の子達のやんちゃぶりはさほど自分を脅かすものではない、と徐々に気付いたようでもあった。彼は度を超えた慎重さんだが、ひとたびここは安心な世界なのだと認識すれば自由に自分らしく振る舞えるのだと、わたしもその時初めて知ったのだ。Aくん以外にもたくさんのお友達ができ、なんなら卒園前の発表会ではクラス代表のあいさつを務めるまでになった。

 その一方でAくんともあいかわらず仲はよかった。Aくんの家族とわたしたち家族は幸いとても気が合って、一緒にキャンプに行ったり遊びに出掛けたりと、幼稚園を離れたプライベートでもかなり親しくしていたのだ。

 Aくんと末っ子は芯の部分がとても似ている、とわたしは感じていた。慎重で繊細で、いろいろなことを深く考えて不安になってしまう。なにかふっきれたように表むきは利発になった末っ子と違いAくんはあいかわらず大人しかったが、それでも幼稚園も学校も楽しく通っているようだった。

小学生になってからもその関係は続き、末っ子がさらに快活さを増して、活発な男の子たちとよりよく遊ぶようになっても、時折思い出したようにAくんの名前は挙がった。

その時、「Aくんとなにして遊んだの?」と聞くと、だいたいが

「図書室で一緒に絵本みてた」

と、答えることが多かった。

「なんで?」

と訊くと、

「あったかいから」と答える末っ子だ。

図書室には、昼下がりに日当たりのよい場所があるらしい。寒がりの末っ子が幼なじみのAくんと仲良く並んで絵本を見ている穏やかな様子は、見ていなくてもありありと目に浮かぶようだった。

  Aくんのおうちでも、わが家でも幼稚園でもお出かけ先でも、それはしょっちゅう目にする光景だったからだ。

まるで、ふたりにしかわからない言葉や決まりごとがあるようにぴたりと寄り添って絵本を眺めている末っ子とAくん。ページをめくるときだけ、どちらからともなくちょっと遠慮がちに「いい?」というふうに目配せをしあう。それは世界一静かで優しい、言葉のないふたりの会話だった。

やがて時は過ぎ時代はコロナ渦の渦に呑み込まれ、キャンプや旅行でしょっちゅう遊んでいたAくんの家族ともすこし距離ができてしまった。2年生になり、末っ子が遊ぶ約束をしてくるのはさらに活発な男の子たちが多くなっていった。

Aくんが学校に来ていない、とふいに耳にしたのはそんなある日のことだった。

「よくわかんないけど。病気みたい。お昼頃お母さんと一緒にすこしだけ来てる」

末っ子は言った。寝耳に水だった。

まさか、と思う。

Aくんは丈夫というわけではないが、それほど病弱というほどではなかった。それにお昼だけお母さんと一緒に来ているというのは……

気にはなるけれど、無遠慮に訊いてよいことかどうかはわからない。もしなにかあるなら話してくれるだろう、とわたしは思った。

Aくんのお母さんから連絡があったのはそれから約1ヶ月ほど後のこと。

Aくんとわたしたちはキャンプを通じて出会った共通の友人がいて、遠方に引っ越したその友人の新築祝いをどうするか、以前からやりとりをしていたその流れの中の告白だった。

いわく、Aくんが学校に行けなくなったのはある病気のせいである、とも言えるし、そうではない、とも言える。

  心の病気でもあり、同時に身体の病気でもあった。詳しいことは書けないけれど、ただそれ自体は薬でおさえられる軽いものだが、自分がその病気の症状が学校で出てしまいそれを友達にみられるかもしれないことが不安になり、そちらのほうで学校に行けなくなってしまったのだということだった。

わたしは驚きに言葉もなかった。Aくんがそんな問題をかかえていたことなど思いつきもしなかった。Aくんはただただ優しく穏やかで、人よりもほんのすこしだけ繊細なだけの大人しい男の子だ。末っ子の大好きな、大好きな幼なじみ。

  だけど、とわたしは思った。あれはたしか去年だった。一緒にスポーツ施設に遊びに行った時、Aくんのお母さんが話していたこと。

Aくんが繊細でちょっとしたことが気になってしまうこと、不安を抱えて人よりもやることが遅くなってしまうこと、保健センターで相談して、大きな病院で検査してもらうことになったのだと。

『でも、これといって原因が見つからなくて…』

彼女は表情を曇らせていたのを覚えている。

『たぶんこれかな?という数値は出てきたんだけど、決め手というわけじゃないし』

自分がその時なんと言ったのか、はっきり覚えていなかった。でも息子と同じように大きな音を怖がるAくんにMRIを用いての検査までするのは、よっぽどのことなのだ、と思った。ただ、どうしてだろう?という疑問は残った。

笑いころげ、はしゃぎまわり、子犬のように元気に仲良く遊んでいる末っ子とAくんが目の前にいた。Aくんにそんな検査をしなければならないほどのどんな問題があるというのだろう、と。時折意見をぶつかり合わせながらもお互いの気持ちに敏感なふたりは、けして激しくお互いを傷つけたりせず、穏やかで平和で優しくお互いを思いあっている。やんちゃな子たちにはわりと攻撃的な言葉を投げつけあったりすることもある末っ子も、Aくんにだけは絶対にそんな言葉は使わなかった。Aくんもそうだ………

『でも、今回のこれでやっと原因らしきものが見つかってちょっとホッとしてる。ずっとなんでだろう?って思ってるのはあったから……』

Aくんのお母さんは言った。知らなかった。そんなに気にしていたなんて。

彼女の気持ちに寄り添ってあげられていなかったことが、すごくすごくショックだった。だって本当にAくんは末っ子にとって仲良しで大好きな幼なじみ、それでしかなかったのだから。

Aくんがいたから、幼稚園も楽しく通えた。絶対に行きたがらなかった水族館もAくんと一緒なら行く、と言って克服できたのだ。ピアノ教室もそう。習いたくて、でも人見知りでずっと勇気が出なかったのに、先に習っていて発表会で立派に演奏するAくんを見て、自分にもできるかも、と教室の扉を叩くことができたのだ。

思えば臆病な末っ子の成長の陰にはいつもAくんがいた。Aくんがいたから、この世界は怖くない、ひとりでも安心して歩いてゆけるんだと末っ子は知ることができたのだ。

世界は広い。産まれてからまだ数年。まだちいさな、ほんのちいさな彼ら。

どんなに怖かっただろう。ほんのすこしだけ他の子たちより考えすぎて不安になって。怯えて怖れて動けなくなって。

それを理解してくれたはAくんだけだった。

なんと言っていいか、わからなかった。でも、これだけは伝えたかった。

『うまく言えないけど、○○もわたしもAくんが大好きだよ。特別だとか人と違うとか思ったこと本当に1度もない。優しくて思いやりがあって、それが人としていちばん大事なことだと思う。ずっとずっとAくんと遊んだり出掛けたり、ずっと楽しかったから……』

なんの力にもなれなくても、この気持ちだけは心の底から真実だと言えた。Aくんのような優しくて思いやりのある男の子が苦しい思いをする世の中のほうが間違っている。ふいに激しい怒りとともに、わたしは強烈にそう思った。

人と違うこと、優れていたり劣っていたり、弱かったり強かったり。そんなことはその人のせいじゃない。もっとありのままに、自由に、個性が受けとめられるようになればいいと願うのは、はたして夢物語だろうか。

人それぞれ姿かたちが違うように、心のかたちも違って当たり前なのだ。様々な心のありようを、心のかたちを、もっと広い心で受けとめることができたら。

奇跡はきっとそんなに難しいことじゃない。幼稚園の先生がふとしたことで気にかけてくれて末っ子とAくんを引き合わせてくれたように、ほんのすこしだけ誰かを思いやることで救われる心があるのかもしれない。変わってゆくなにかがあるのかもしれないのに。

そんな中、聴いたSexy Zoneの『星の雨』は、ささくれだった心を、理不尽な怒りに燃えていた心をそっと鎮めてくれるようだった。

改めて、発売されたBlu-rayを見てその歌詞をかみしめ、Aくんのことを思いだして祈るような気持ちになった。

愛する人を愛したいから

懸命に生きて

命の奇跡 遮る様に

時代は僕を試す

身体の中で脈打つ血潮

皆同じ生き物だ

なのに僕らは 比べたがるの?

孤独に怯えないで』

『今、星の雨 風が香る

この世界のどこかで見上げているだろう空

僕たちはこの手で

願い浮かべてみよう

儚く昇ってくよ

ほら、星の雨 降り出してく

涙も悲しみも全て洗い流して

大切な“愛”が“希望”へと変わってく

“命”はここで生きている...』

一番大切なことは、そばにいる誰かの心をあたためてあげられる思いやりなのだと、わたしは心底思っている。

わたしがこの文章を書こうと思ったのは、もしこの文を読んだ人の周りに学校に来られない誰かがいても、偏よらず、まっさらな目で、まっしろな心で見てあげてほしい、と心の底から願うから。

優しくて、繊細で、だからこそ不安を抱えてしまう大切なお友だちなのかもしれない、と想像してあげてほしいと思う。知らない世界でも怖くないのだと、広い心で、大きな心で迎えいれてあげてほしい。できることなら。

この『星の雨』を歌うSexy Zoneの休養している大切なメンバー、マリウス葉さんも。

彼個人のことはわからないけれど、疲れてしまったときは休むこと、それは特別なことじゃなくてごく自然なこと。ありのままでそのままで、世の中に受け入れられるようになってほしい。心からそう願う。

ちいさかった末っ子、人よりもほんのすこしだけ深くいろんなことを考えすぎて、知らない世界に怯えて、なにもできなかった。

でも、初めてふれあえたAくんの心、そして手のひらはあたたかくて、世界はぬくもりに満ちたものであると知ったのだ。

『星の雨』を聴くたびに、Aくんの心がぬくもりに満ちた世界に包まれますように、と願ってやまない。Aくんのことが大好きなんだと、これから何度でも何度でも伝えたい。

あのあたたかくて陽の光に満ちた昼下がりの図書室で、群れから離れた2匹のちいさな猫みたいだった末っ子とAくん。

 陽だまりのようなぬくもりで、優しい心が包まれる世界でありますように。

星の雨のように、先の見えない闇のなかでも、希望の光がそれを求める誰しもにふりそそぎますように。

陽だまりのきみへ。太陽のようなあなたへ。

笑顔で会えるその日まで。

祈りはいつまでも。

この先もずっと心のなかにあるから。

『星の雨』Sexy Zone

シングル「イノセントデイズ」通常版

アルバム「SZ10TH」通常版

Blu-ray&DVD「POP×STEPツアー2020」収録